目次
ごあいさつ
当サイトに訪問いただきありがとうございます。宇田川と申します。僕は現在自営業で生計を立てています。
現在、
- せどり
- 退職コンサル
- ブロガー
の、3 つの仕事をこなしています。
その中でも一番大きな収入の柱がせどりです。
せどりにも様々なノウハウがあります。大きく分けて店舗せどり、電脳せどりがありますが、僕の場合は90パーセント以上店舗せどりを行っています。
店舗せどりの中でも、リサイクルショップのせどりを一番得意としています。平均一日、5万~10万の見込み利益をとります。
今現在(2018年8月)で毎月の粗利は70万円ほどです。店舗せどりといっても、自分の住んでいる地域のみではなく、主に関東県内の様々な地域で旅をしながら気ままにせどりを行っています。
なので、自分でノマドせどらーと名乗っています。僕はもともとドライブや旅行、車であちこち走り回ったり、全国の行ったことの無い地域に行って、様々なものを見たり地域の人と交流したりするのが大好きです。
なので、そんな趣味と仕事をうまくマッチさせたライフスタイルが確立できているので今現在とても満足しています。
また、それ以外にも退職コンサルをしたりしています。退職コンサルとは、いろいろな理由で会社を辞めたいけれどもいろいろな理由で辞めれない人の悩みを聞いたり、やめ方の提案をする仕事です。
しかし、今現在退職コンサルのほとんどがボランティアになっていますので、収入にはほとんど直結していません。
僕は日本中から奴隷のように扱われているサラリーマン(社畜)を一人でも多く開放して自由になって欲しいと心から思っているので、これは僕自身の信念による活動です。
このサイトも、そのような方々のために存在しています。
また、僕は文章を書くこともとても好きなので、ブロガーとしてこのサイトを通してマネタイズした収益も収入の柱となっています。
なので、普段は日本中(主に関東県内)をノマドしながらせどりをしたり、現在社畜生活真っただ中の人の悩みを聞いたり、文章を書いたりしながら生活しています。
仕事以外では旅をしたり、神社巡りをしたり、本を読んだり、興味ある分野の勉強をしたり、子供と遊んだりしながら生活しています。
基本的な考え方
次に、僕が普段どんなことを大切にしながら生きているか紹介させて下さい。
1 自由に生きるべき
人間として生まれてきた以上、自由こそ最も素晴らしいものだと僕は思っています。自分自身が自由に生きるという事はもちろんのこと、自分以外の自由を望むすべての人たちに自由になって欲しいと願っています。
このブログはそのための活動の一環でもあります。なぜなら自由を手にするためには労働のスタイルとして、どうしてもサラリーマンでは難しいと思うためです。
自由と一言で言っても、様々な自由があります。
- お金の自由
- 時間の自由
- 空間の自由
- 人の自由
- 思想の自由
などなど。
これらすべてにおいて人間は自由になるべきだと思っています。
2 人生すべて自己責任
僕は人生はすべて自己責任だと思っています。これはつまり、何一つ他人のせいにできないという事です。
僕の今の生活のすべては過去の僕自身が作り出したものです。なので何一つ他人のせいにできることはありません。
そしてそれは自分以外の人にも言えることです。もしも今あなたが望むような現実を手に入れていないとしたら、それはすべてあなたが過去に行ってきた行動の結果です。
会社が悪い、上司が悪い、仕事が悪い、親が悪い、などなど、いろいろなもののせいで上手くいっていないと思っている人がかなりの数いますが、それは僕は違うと思っています。
全てあなた自身のせいです。そして、今の現実を変えられるのも、あなただけです。そのお手伝いはいろいろな人からしてもらえると思いますが、結局は自分の人生は100%自己責任です。
3 好きなことをして生きるべき
僕は人生は好きなことをして生きるべきだと思っています。よく、「嫌なことでも我慢しろ」みたいな風習が日本ではあります。
子供の頃も親からよく「嫌なことでも我慢しなさい」と言われてきましたし、同じような方も多いのではないでしょうか?
僕はそんなバカな話はないと思っています。その嫌なことが今後の人生の実りに直結するならまだしも、なんの得もない苦痛をなぜ耐えなければならないのでしょうか?
例えば、一日中穴を掘って埋めるという作業をし続ければならないとすると、そんな苦痛なことはないのではないでしょうか?
そういう意味のないことは今すぐに辞めるべきです。今振り返ると、その意味のない苦痛イコールサラリーマン生活だったと思っています。
僕はそんな無駄なことを10年以上も続けてしまいました。もしも今のサラリーマン生活に少しでも疑問を感じるのであれば、今すぐに脱サラの準備を進めていくべきだと思います。
そのためのお手伝いは惜しみなくさせていただきます。
興味のある分野・好きなこと
僕は今次のようなことに興味があり、勉強しています。
- ビジネス
- 投資
- ノマド
- 旅
- スピリチュアル
- 神社、神道
- 教育
- 情報発信
- レバレッジ
- 効率化
- 世界権力(国際銀行家、イルミナティ)
- 社会システム
好きなことは下記のようなことです
- 自然
- 子供
- 創作
- 旅
- 音楽
- 読書
- 映画
- アニメ
- 漫画
夢・野望
やりたいこと、夢、野望は下記です。
①国際銀行家(イルミナティ)打倒
国際銀行家(イルミナティ)という人たちが存在します。彼らを倒すことが人生一番の野望です。今現在の日本中、ひいては地球中の不幸の根源が彼らです。
彼らは、これまで悪行の限りを尽くし、金儲けのために戦争を起こし何百万という人たちを殺したり、不幸のどん底に突き落としたり、メディアを使って人々を洗脳したり、食品に毒を混ぜ人体を弱体化させたりしてきました。
それらをすべて自分たちの利益の為のみに行ってきているのです。地球上に彼らがのさばり続ける限り、僕たちに真の自由と平和はあり得ません。
②社畜開放運動
一人でも多くの社畜を開放すること。これが今現在の僕のライフワークになっています。何度も言っていますが、このサイトもそんな活動の一環です。
今、アメリカでもフリーランスの割合がどんどん増えています。好きな仕事を好きな場所で好きな時間に好きなだけする、そんな人達を一人でも多くこのサイトを通して増やしていきたいと思っています。
③ハイエースキャンピングカーで日本中回りながらノマド
今現在それに近いことはやっていますが、せどりは在庫を抱えるビジネスなので、今後はその割合を減らしていき、自由にあちこち移動できるライフスタイルにしていきたいと思っています。
そのために、ビジネス自動化に力を入れています。日本中隈なく回って、神社参拝したり登山したりしながら仕事をしたいですね。
④PC一台で世界中ノマド
これは30代のうちに何とかやりたいと思っています。今の僕はそこまで到達していません。ビジネス自動化や投資を進めていき、何とかPC一台あれば仕事が完結するようにしていきたいですね。
そうしたら、世界中をノマドしながら回りたいと思ってます。
⑤PT生活
PT(パーマネントトラベラー)という人たちがいる事をご存知でしょうか?PTとは終身旅行者の意味です。
PTになると、どこの国籍にも所属していないことになります。なので、納税の義務がありません。
常に様々な国を転々とする、あるいは世界中のあちこちに拠点を設けその拠点をある期間ごとに移動する生活をしています。
PT生活というものを何とかやっていきたいと思っています。
これまでのいきさつ
では、僕がどのようにして今のようなライフスタイルにたどり着いたか簡単に紹介させて下さい。
~学生時代
誕生~小学校時代
僕は1983年の生まれです。生まれは栃木県の益子町という田舎です。益子町は焼き物で有名な街なのですが、僕の父も焼き物をしていて、それで生計を立てていました。
特に裕福ではなくどちらかというとお金はない方でしたが、ある程度欲しいものは買ってもらえたり、休みの日は遊びに連れて行ってくれたり、人並みの生活はさせて貰えました。
保育園時代はかなりやんちゃで喧嘩で負けたことがありませんでした。子供ながらも自分のことを最強だと思っていました。今でも覚えています。
そんな自信が崩れたのが小学校2年生の時です。僕は人生初めて喧嘩で負けて泣かされます。そこからちょくちょくいじめられるようになり、劣等感が芽生え始めました。
小学校高学年になるころは、すっかりおとなしくなり、教室の隅っこでおとなしくしている様な子供だったと思います。
腕骨折とごみ以下
こんな僕の子供時代の性格に大きな影響を与えたのはやはり両親の影響が大きかったと思います。父親は気分で怒る人間でしたし、母親は自分の理想に子供を固めようとする人でした。
今では両親にはとても感謝していますし、普通にコミュニケーションをとりますが、20代の半ばくらいまでは子供のころ両親にされた恨みを払うことは出来ませんでした。
そのエピソードでも今でも覚えているのが、「腕骨折」と、「ゴミ以下」です。
僕は小学校から空手を習わされているのですが、ある時父親に庭に連れ出され、なんだろうと思っていると、空手の稽古だといわれ、組手を父とすることになりました。
父の攻撃を受け続けていたのですが、父の重い蹴りを受けた時、腕におかしな激痛が走りました。僕は耐えることが出来ず、しゃがみこんで泣きそうになりました。
父からはなんだその女々しい顔はと叱咤されました。腕の痛みはいつになっても引かずおかしな腫れ方をしてきたので、後日病院に連れていかれ、診断結果は骨折でした・・・
母からはある時「お前はゴミ以下だお前はきっと病院ですり替えられた別の子に違いない」と言われそれが、僕の劣等感の核になりました。
それがどんなシチュエーションだったかはよく覚えていませんが、その言葉だけは正確に覚えていて、ただただ絶望と恐怖でした。
何より親から捨てられるのが怖く、僕は自分の心を殺し、出来る限りのいい子を演じていたように思います。
そんな体験が、今の僕の「自由こそ最も素晴らしい」という思想を強めるきっかけになっているように思います。
家庭生活ではこのような感じだったので、今思うとかなり抑圧された精神状態の中、子供時代を過ごしていたように思います。
中学高校時代
中学時代は剣道部に所属していて成績は中の下といった感じでした。当時の楽しみは、当時はやっていたポケットモンスターで友達と遊んだり、少年ジャンプを読むことでした。
これといった夢や目標がないまま、地元の中の下くらいの高校に進みます。高校時代もパッとしないどこにでもいるような高校生でした。
剣道の推薦で高校に入ったのですが、部員たちに仲良く出来そうな人がいなかったという理由で、一週間ほどで部活には顔を出さなくなりました。
授業中は寝ていて、学校が終わると友達とブックオフみたいなお店に行って立ち読みして、暗くなったら家に帰るという生活でした。
当時はなぜか宇宙とかブラックホールとかアインシュタインとかタイムマシンといった事に興味があって、そういう関連の本を読んでいました。
浪人生時代
そんな田舎の高校から静岡の大学に進むことになるのですが、その間一年間の浪人生活を経験しました。
浪人時代は東京の祖母の家に下宿していたのですが、この一年間が僕の今までの人生で一番辛かったといっても過言ではないほど辛かったです。
まず、友達が全然できませんでした。当時の友人で今でも名前を憶えている人は一人しかいません。
僕は栃木の田舎出身で訛っていたので、言葉の壁がまずありましたし、その予備校は、医学部を目指すような人が行く予備校だったので、裕福な家庭の人が多く、高校もトップクラスの進学校出身の方が多くいました。
なので、田舎の中の下の高校出身の僕はとにかく勉強に全くついていけず孤立していました。そんな中でも、性格が良ければやっていけたのでしょうが、当時の僕はダメな上にプライドも人一倍高かったので、周りに心を開くこともできず、どんどん孤立していきました。
今でも覚えている作業はひたすら英単語を覚えさせられたのと、ひたすら計算をとかされたので、ひたすら暗記させられた事です。
辛すぎて当時の記憶がぼやけていて、よく覚えていませんが、家に22時ころ帰ってくると深夜アニメを見る時間が唯一心癒される瞬間だったように思います。
また、当時は全く分かりませんでしたが、祖母はこんな僕に本当に尽くしてくれました。毎日食事を作ってくれ、お弁当も作ってくれました。
今でも忘れられないのが、肝心の受験シーズンにインフルエンザにかかり、試験に本領を発揮するのが出来なかったことです。
この時は一体何のために一年も耐えてきたのかと、本気で恨めしく思いました。本命の大学はすべて落ち、滑り止めで受けておいた中の中くらいの大学に滑り止まりました。
そして春からいよいよ大学に通うことになります。
大学時代
大学生活は、僕が当時思い描いていたものとは全く正反対のものでした。大学に進むまでは何となく華々しいキャンパスライフといったものを想像していたのですが、実際は酒に溺れて生活が破綻するキャンパスライフでした。
まず、一番の失敗が、事前に何のために大学に行くかを全く考えていなかった事です。周囲の操り人形だった僕は、周りに言われるがままとりあえず大学に進みました。
しかし、一人暮らしをするようになり、操り人形にしていた周囲の人間から解放されたはいいのですが、何をすればいいのか全く分からなくなったのです。
今まで自分の頭で自分の将来や自分の生活を考えるという事をしたことがなかったので、本当に空っぽの状態で、鬱一歩手前になりました。
その状態で導き出した答えは、「とにかく好きなことをする」でした。まず、学科の友達が全くできなかったので、授業には全く行かなくなりました。
お金は欲しかったので、とにかくバイトをしました。一番初めに始めたバイトは高級クラブのボーイでしたが、3か月でクビになったので、パチンコ店のホールスタッフを始めました。
この仕事がうまくはまり、大学生ながら最高月20万くらいは稼いでいました。
空手部(酒飲み部)で人生堕落
そしてなんといっても部活の付き合いです。学科の友達は出来ませんでしたが、子供のころからやっている空手部に入部すると、仲のいい先輩や同輩の友達が出来ました。
僕の通っていた大学の空手部はとにかく浴びるように酒を飲む部活だったので、そこで初めて酒を覚え毎晩のように酒を飲みまくる日々でした。
この頃、子供のころから抑圧してきたものが一気に爆発し、とにかく遊びまくるようになりました。
夜は酒、昼間はバイトかパチンコといった生活で、大学生ながらそこそこ稼いではいたのですが、ほとんどが酒とギャンブルに消えていきました。
とにかく、22時くらいに友達とカラオケに行き、翌朝の10時くらいまで飲んだり歌ったりして、そこから飲酒運転でパチンコしに行くといったあり得ないような生活をしていました。
しかし、こんな生活をしていては、当然いいところに就職できる訳なく、卒業自体不可能なので、当然のごとく4年に上がる時に大学を中退しました。
大学中退、治験生活
こんな大学時代でしたが、この頃、船井幸雄という人物を知ることになり、彼の本をむさぼるように読み漁りました。
船井幸雄さんはもうなくなっていますが、経営コンサルタントの草分けのような人で、経営のみならず、スピリチュアル、社会システム、宇宙、などあらゆる分野で独自の情報発信をしていた方です。
彼の思想は僕と同じ「人間自由に生きるべき」という思想が根本にあり、僕の思想を育てるのに大きな影響を与えた人物の一人の一人です。
大学を中退すると、バイト先の先輩の一人から教えてもらった治験をしたりして生計を立てるようになりました。
この頃から真面目に働くのなんて馬鹿らしいと思っていたので、とにかく楽して稼ぐにはどうすればいいかばかり考えていました。
当時は精神的にも未熟でしたし、そんな考えが僕にある事件を起こさせてしまうのです。その時は23才でした。
この事件は詳しくは書きませんが、かなりの大ごとになってしまい、家族に多大な迷惑をかけることになりました。
それに凝りて、僕は生まれて初めて「もう23だし、真面目に働かなきゃな~」と思うようになりました。
そこから十年ちょっと、地獄のサラリーマン生活をすることになります。
サラリーマン時代
サラリーマン時代には、電気屋、花屋、工場での派遣、介護職などなど、様々な仕事を経験しました。それぞれの印象に残っているエピソードや、学んだことをまとめてみたいと思います。
電気屋時代
ある事件があり、はじめに就職した会社はコジマ電気の下請け会社で、テレビや冷蔵庫などを配送し備え付けをする仕事でした。
とにかく仕事が嫌いだったので、毎日鬱でした。また、この仕事はかなり重いものを運ぶことが多く、腰がとにかく痛かったです。
パチンコ店で働いていた時から腰は痛かったのですが、それがさらに悪化しました。一年くらいそこで働きましたが、腰が痛いし、こんな仕事一生続けたくないという理由で、「ヘルニアになった」と嘘をついて辞めました。
花屋時代
次に就職したところが、家族経営を営んでいる花屋でした。花屋に就職した理由は特にありませんが、何となく芸術的なことが昔から好きだったためです。
そこの花屋は花祭壇(葬儀などで亡くなった方の家委の周りを菊などで装飾する)の草分け的なところで、当時すべての仕事を仕切っていた社長の息子が、花祭壇の本場の札幌で修業を積んできた方でした。
つまり、ガチガチの職人気質の方だったのです。その方から、仕事においてみっちり鍛えられることになります。
また、家族経営独特の人間関係のパワーバランスがあり、独特の人間関係の中もまれ続ける事になりました。
当時はそれがかなり苦痛でしたが、今思うといい経験でした。社長の息子の一つ下には、当時の僕の10歳くらい年上だったSさんという方がいたのですが、とにかくその方が曲者でした。
僕の後に入ってきた人たちはほとんどがSさんが嫌で二三か月で会社を辞めていきました。Sさんは社長の息子と対立することもしばしばあり、その間に挟まれるととにかく最悪でした。
会社には同い年で仲の良かったK君という方がいたのですが、K君がいたから僕も何とか続けられたようなものです。
よく駐車場でK君と愚痴を言い合っていましたが、そんなのも今思い返すといい思い出です。仕事はというと、とにかくキツかったです。
花屋の実態は正反対
花屋というと華々しいイメージをする方が多いと思いますが、花屋の仕事の9割以上が泥臭く地味で地道な作業です。
重いものを運ぶことが多く、パチンコ店と電気屋でさんざん痛めつけられていた腰がますます悪化していきました。
僕が務めていた花屋の仕事は葬儀場かブライダルでの仕事が多かったので、ミス一つできない緊張感の中、社長の息子やSさんにとにかく怒られ続ける日々でした。
ですが、社長の息子は人情アツい方でとても厳しい方ではあったのですが、人のためを想って怒るような方でした。
そのため、想像を絶するような辛い仕事ではあったのですが、やめたいとは思いませんでした。しかし、とにかく仕事はきつかったです。
花は生ものなので、先に準備しておくという事が出来ません。なので、葬儀にしろブライダルにしろ、ぎりぎりに準備するため作業が終わるまで仕事が終わらないのです。
朝早くから仕事が始まり、日をまたぐまで仕事が終わらないこともざらにありました。そんな花屋人生ではあったのですが、ある事件を起こしてしまうことになり、花屋を退職(半分クビ)になることになります。
ある事件で花屋をクビに・・・
その事件とは3回連続での自動車事故です。花屋の仕事は配送なども多く、社用車を運転することが多かったのです。
当時の僕は精神的にも肉体的にも崖っぷちでした。そんなのも影響してか、仕事中自動車事故を連続で起こしてしまったのです。
その一つは三台の玉突き事故になるような大きなものでした。その人身事故もあり、僕は免停に陥ってしまったのです。
仕事においては車を運転できないイコール全く使えないただのゴミでした。社長からは、こいつはきっとまたへまをやらかして会社に大きな損害を与えるに違いないという事で、こいつはクビにした方がいいんじゃないかという話が持ち上がったのです。
社長の息子や同い年のK君は僕をかばってくれました。結局、会社に残るか辞めるかの決定権は僕に委ねられましたが、会社を辞めることにしました。
その理由は、一生花屋という人生にだいぶ前から疑問を抱いていたからです。社長の息子やK君には悪かったのですが、花屋は退職しました。
その花屋は今でも続いていて社長の息子は社長となり、同い年のK君は社長の右上の係長として今でも働いています。
派遣社員生活
花屋を退職した後は、特にどんな仕事に就きたいとかはなかったのですが、とにかく働かなければ生活していけないという事で、とりあえず工場の派遣社員として働きだしました。
そこで、僕はなんとめちゃくちゃ仕事ができる人間になります。花屋時代はとにかく社長の息子やSさんがどう動くかを予想してそれに合わせた動きを事前にこなすといったことが必要でした。
その行動が的外れなものだととにかく怒られる訳です。また、仕事の報告、連絡、相談も、そつなく簡潔にこなさなければなりませんでした。
それとまったく同じ動きを次の仕事場で行っていただけなのですが、それがめちゃくちゃ仕事のできる人間にしていたのです。
派遣社員というと、とにかくどこの職場に行っても使い物にならない人間が集まってくるというのもありました。
そんな中にいたので、僕は派遣社員の中ではとにかく仕事ができる光った存在になっていたのです。
そんなこともあってか、上司からは可愛がられ、居心地は良かったです。しかし、工場といえば単調作業が日課でした。
仕事がとにかく面白くなく、仕事中はほんの5分が数時間にも感じられることがありました。これは経験したことのある人ならわかると思います。
そんなだらだらとした派遣社員生活を送っていたのですが、ある転機が訪れます。それが横浜への引っ越しです。
新天地横浜へ
僕の人生を左右するような大きなことが当時あり、僕は横浜に引っ越すことになったのです。それが何かはここでは書きませんが、機会があれば書いておきたいと思います。
その頃、国際銀行家(イルミナティ)という存在を知ることになり、彼らが歴史上いかなる悪事を働いてきたかも知ることになり、とにかく天地がひっくり返るほど驚きました。
横浜に引っ越した僕は介護職として働くことになりました。介護職に就いた理由は特に明確にはありませんでしたが、これからは高齢化の時代だから仕事には困らないかなといった理由でした。
介護職で心機一転のつもりが・・・
最初に就いた職場は特別養護老人ホーム、いわゆる特養でした。仕事はというと、とにかくキツかったです。
夜勤をしたのも初めてでした。仕事時間がバラバラなので体がついていかないし、とにかく腰に負担がかかる仕事だったので、パチンコ屋、電気屋、花屋で酷使し続け限界だった腰が、とにかく砕けそうでした。
ここの職場では特にこれといったこともなく、一年半くらい続けましたが、これ以上こんなとこに居続けても仕方ないという理由で、「地元に帰る」と嘘をついて退職します。
次についた仕事が、訪問介護の仕事でした。ここの職場が僕にビジネスを始めるきっかけを与えてくれます。
当時は、血管がぶち切れそうになるほどムカつく出来事でしたが、その出来事が僕にビジネスを与えてくれたと思うと、感謝してもいいのかもしれません。
最初はパートとして入ったのですが、花屋時代に鍛えられていたこともあり、とにかく僕は職場で使える人間でした。
訪問介護事業所の管理者に抜擢される
そこで、事業所の管理者(Nさん)から「ここの事業所の管理者にならないか?」と話を持ち掛けられることになります。
Nさんは僕のことを気に入っていましたし、僕も嫌ではありませんでした。なので、二つ返事でNさんの誘いを受けることにしました。
管理者になると、管理者という事もあり、ある程度自由に仕事をこなすことが出来ました。何時に出社してもある程度OKでしたし、自分の仕事が終わったら早めに切り上げることもできました。
何より、仕事はそこそこ楽しかったので、どんどん仕事を覚えていき、事業所の業績をどんどん上げていきました。
そして、これは今でも自分の誇りにしているのですが、全事業所トップの売り上げを上げるまでに事業所を成長させたのです。
独自の営業方法を確立し、どんどん仕事をとり、それを主婦のパートさんに振っていきました。この経験が僕のビジネスの基礎を築いてくれたと思います。
全事業所トップで本店の売り上げを抜くという事はかなりの偉業でしたし、他の事業所の管理者からもびっくりされました。
しかし、ある疑問を抱くことになります。それは成績を飛びぬけてあげたにも関わらず、給料が全くと言っていいほど上がらなかったことです。
あれ?なぜか給料上がんないんですけど・・・
管理者になる時、Nさんから「とにかく事業所の売り上げを上げろそれが出来ればガンガン給料を上げてやる」と言われていました。
しかし、現実は全く違っていて、給料が上がらなかったのです。事業所の成績が上がるという事は、仕事が増えて忙しくなるという事です。
仕事は増え業績は上がりましたが、僕個人の給料は全く変わらないのです。当時管理者には残業代なんてありませんでしたから、何時まで仕事をしても給料は変わらないのです。
その出来事が徐々に僕にやる気をなくさせていくことになりましたし、Nさんへの不信感も募らせていきました。
ここの職場は人間関係も表面上は仲良く取り繕っているのですが、とにかく裏は最悪でした。Nさんはとにかく男なのですがねちっこい人間で、ターゲットを決めると皆して徹底的にターゲットをいじめるのです。
Nさんの一つ下にはWさんという女のボスのような方がいて、実質その事業所を仕切っているのはNさんとWさんでした。
つまり、僕の管理者は肩書のみで、仕事はすべて僕がこなすのですが、事業所を仕切っているのはNさんとWさんという状況だったのです。
僕はNさんともWさんともそこそこ仲良くしていたので、そんな状況に不満を覚えつつも仕事はそつなくこなしていました。
ターゲットにされていたのは、Kさんという、僕の10個上くらいの女性事務員さんでした。Kさんは本当にいい方で、僕が入社した当時からいた方なのですが、丁寧に仕事を教えてくれたり、少しミスをしたときなんかはよく励ましてくれました。
僕はそんなKさんが好きでしたし、実質仕事を回しているのは僕とKさんといった形でした。
NさんとWさんは仕事はほとんどしない割には給料はたんまりと貰っていて、事業所も仕切っているという状況でした。
Kさんが陰湿ないじめを受ける度に心が痛みましたが、僕にはどうすることもできませんでした。幸い、Kさんはメンタルがかなり強い方で、いじめられてもあまりめげることはありませんでした。
いじめのターゲットにされ針の筵状態に・・・
そんな中、事件が起きます。Kさんが移動させられてしまったのです。今までKさんと二人でこなしていた仕事を一人でこなさなければならないようになり、僕の大変さは途方もなく増しました。
そして、あろうことか、Kさんがいなくなった事業所で、NさんWさんが苛めのターゲットの矛先を僕に向けだしたのです。
Kさんが移動すると聞いた時から、なんとなくそんなことになるんじゃないかと身構えてはいたのですが、予想が的中してしまったのです。
給料が上がらないことによるやる気の喪失、とりわけ仲の良かったKさんの移動、そして何よりNさんWさんによる陰湿ないじめ。その三つが一気に僕にのしかかってきました。
針の筵とはまさしくこのことだと思いました。とっととこんなところは辞めなければならない、本当に参ってしまう、と、やめるタイミングを計りだした矢先、ある決定的な事件が起こります。
当時、事務所にかかってくる電話は、事務所が締まっている時はすべて僕の携帯に転送される様になっていました。
お客様からの連絡、得意先からの連絡、職員さんからの連絡、その他の連絡を、食事中だろうと休みの日だろうと、深夜だろうと対応しなければならず、自分の時間は全くありませんでした。
しかし、冠婚葬祭などどうしても転送電話に対応できないこともある為、Wさんの携帯にも転送できる様になっていました。
ある事件でついに我慢の限界が臨界点を迎える
そんな中、突然の訃報がありました。叔父が亡くなったのです。その叔父は子供のころから本当に僕のことを可愛がってくれた叔父でした。
当然葬儀にも参加しなければならず、Wさんに葬儀の間だけ転送電話を対応してもらえないか頼みました。
その時のWさんの返答。何と言ったかというと、「無理、その日は職場のみんなと野球見に行くから」です。
「は?野球見に行くから無理?本気でいってんのか?この人は?」と本気で思いました。あろうことか、Nさんも「Wちゃんはみんなで野球見に行くんだから、それくらい管理者が対応しないと」と、Wさんをかばいだす始末。
二人相手に覆すことも出来ず、僕は本当にお世話になった大好きな叔父の葬儀にも満足に出ることは出来ませんでした。
本当に涙を呑むような出来事だったのですが、この事件が僕を本気にさせました。「辞めてやる、こんなとこは早々に辞めてやる」と思いました。
よっぽど、バックレてNとWを困らせてやろうと思いましたが、その選択はしませんでした。後味が悪いですし、何より困るのがNとWだけならいいのですが、パートの職員さんたちにも多大な迷惑をかけてしまうからです。
幸い、僕の後継者になるような職員が入ってきていたこともあり、僕はその職員への引継ぎを早々にこなし、職場から脱出しました。
奇跡の出会いから自由への第一歩
この職場から脱出した後は、似たような仕事をパートとしてこなしていました。とにかく生活のために働かなければならないからです。
ちゃんと正職員になって上を目指す道もありましたが、一度それで地獄を見ていたため、その選択肢は選択できませんでした。
とはいえ、この年になってもパート職員。給料は上がらず、年を取るごとに仕事がきつくなってくる現実に、徐々に将来に絶望を抱きだしました。
そんな中出会ったのが、MRMという人物です。彼を見つけたのはインターネットでしたが、彼は僕よりも5つほども年下でしたが、驚くべき人物でした。
まず、彼は仕事時間は週21時間まで。それでいて、通常のサラリーマンの数倍の収入を得ていて、PC一台あれば仕事ができるらしく、仕事をする場所も自由。
そのため、海外を転々としながら生活している人物でした。こんな人間がいるのかと、本当にびっくりしましたが、よくよく調べてみると、数は少ないですが彼のような人物が他にもいる事がわかりました。
もしかしたら僕も彼らみたいなライフスタイルを築くことが出来るかもしれないと思うようになり、気づけば当時の僕からしたら大金をはたいてMRMの主催する合宿に参加していました。
彼らのようになるためにはとにかくPCでビジネスを所有する必要があると分かったので、サイトを構築しマネタイズしようと必死になりました。
その時作ったサイトがこのサイトです。今でこそ、退職やせどりをコンテンツとしていますが、当時はどんな情報発信をしたらいいかわからず、やみくもに記事だけ量産していました。
ブログコンサル詐欺に騙される
当時書いた記事を読み返すと本当に恥ずかしいです。
僕はサイト構築のスキルが全くないため、ブログをきれいに整えることが出来ませんでした。そこで、MRMの合宿とはまた別に大金をはたいて、ブログのコンサルを受けることにしました。
しかし、そのコンサルがまたもや地獄の始まりでした。このコンサルタントは名前はある程度通った方でしたが、実質彼のところで稼げている人は皆無に等しいエセコンサルタントだったのです。
一応、サイトを綺麗にしてくれたりはしましたが、トップページはダサダサ。大金をつぎ込んでいるにも関わらず、それ以上サイトをいじってくれることはありませんでした。
同じコンサル生のブログを見ても、みんな同じフォーマットでした。その方は質問をしても返事が遅く、2日3日質問の答えが返ってこないことも稀でした。
それだけならまだしも、質問を普通にシカトされることも一度や二度ではありませんでした。そのコンサルタントの2ちゃん記事をある時見かけたのですが、「詐欺、稼げない、シカトの常習犯」などなど、さんざんな言われ様でした。
しかし、お金はもう払ってしまっていましたし、他に方法もわからなかったので、とにかく彼の言う通り、作業を続けていくことにしました。やる事と言えばひたすら記事を量産し続ける事でした。
仕事時間以外、一日2時間以上作業をこなしましたが、半年たっても全く収益は上がりませんでした。
全く収益が上がらずにストレスで髪が抜けまくる
そのコンサルのLPでは、3か月で10万、半年で30万の自動化収入が平均的なコンサル生の実績などと謳っていましたが、僕も含めてそんな成績をあげてる人は皆無でした。
一年たっても数千円稼げればいいところと言ったところが実際でした。当然僕も一年過ぎても全くと言っていいほど収益は上がりませんでした。
ブログ以外にも、ちょくちょく「稼げるよ」といったノウハウに大金をはたいては全く稼げずに終わるといった事が続きました。
自分でビジネスをしていこうと決意してから一年目くらいが本当にどん底でした。ノウハウにお金をつぎ込んでしまっているため、貯金もない。
作業は続けるけれども全く稼げない。仕事には将来的な絶望しかない。そんな状況でした。この時は本当に精神的に限界でした。
しかし、そんな中出会ったせどりというビジネスが、僕に光明をもたらすことになります。
光明一閃!せどりとの出会い!!
当時僕は、とにかくサイトでは稼ぐことは出来ない、コンサルタントも全くあてにならない、という事で、他のビジネスを模索していました。
せどりというビジネスは、前から知ってはいたのですが、在庫を抱えなければならない、まずは商品を仕入れなければならないという事で、リスクが高そうなので敬遠していました。
ですが、調べるうちにどうやらせどりは本当に稼げるらしい、それもアフィリエイトなどと違い、初月から稼ぐことも出来るらしいという事がわかりました。
そこで、せどりについて徹底的に調べ、一番しっかりしてそうだったせどりのコンサルを専門としている会社に、コンサル依頼の面談を申し込むことにしました。
そこで、僕を担当してくれるコンサルタントと30分ほどのスカイプ面談をした後、この人はブログのコンサルとは違って信用できそうだ、と判断したため、コンサルを依頼することにしました。
コンサル代金は破格の値段だったため、ものすごく怖かったです。今まで大金をはたいては全く稼げないという事が続いていたので、今回もダメだったらどうしようと本当に思いました。
あえて先に会社を辞め背水の陣に→初月から20万稼ぐ
僕は、コンサルを受けるにあたりある決断をしました。それは会社を先に辞めてしまおうというものです。
あえて自分自身を崖っぷちに置くことで、本気の本気でやろうと決意したのです。そして、せどりのコンサルタントに手取り足取りノウハウを指導していただき、失業保険を貰いながらノウハウをこなす日々が始まりました。
その結果、初月から20万の利益を出すことが出来たのです。この時は本当に感動で手足が震えました。
一年以上も作業を続け全く稼げることが出来なかった絶望の中、初月から20万の利益です。自分で稼ぐなんて自分には無理なんじゃないか?と本気で諦めかけていた中での20万です。
そこからは徐々にせどりで利益を伸ばして行けるようになりました。当時僕がやっていたノウハウは、セルフバックを利用した電脳せどりでした。
しかし、このノウハウは一度購入した商品は二度と購入することが出来ず、いずれ商品が枯渇してしまうといったデメリットがありました。
アカウントを複数生み出す方法などをあみだして対応していたのですが、せどりコンサルを受けてから3か月ほどたったある日、店舗せどりの同行をコンサルタントに受けることになり、2日間みっちりと店舗せどりのノウハウを教わることになりました。
店舗せどりを始めたことにより収入が加速
そこで、店舗せどりに可能性を見出した僕は車を購入し、店舗を回りまくるようになります。徐々に店舗せどりでも収益を出せるようになってくると、そこからは右肩上がりに収益が伸びていきました。
コンサル開始から半年ほどで50万の利益がだせるようになり。一年たつ頃には、70万前後の利益を出すのが当たり前になっていました。
また、僕のコンサルタントの右腕となりコンサル生の店舗同行を僕がこなすようにもなり、自分のせどり以外の収益も入るようになりました。
そしてまさかの事態で、ここにきて急にブログからの収入が増えだしたのです。これは本当に予想外の出来事でした。
コツコツと書き溜めてきた記事から広告収入が一気に入るようになってきたのです。
そして今では自分のせどりの収入を柱としながら、店舗せどりの同行コンサルや、サイトからの収入で悠々自適の生活を送れるまでになりました。
今思うとサラリーマンは間違いなくクソ
僕が柱としているせどりの収益は70万ほどなので、せどらーとしては大したことないかもしれません。
ですが、僕はただのせどらーではなくノマドせどらーです。本当に日本各地を転々としながら、好きなことをして収益を上げています。
自分で言うのもなんですが、こんなせどらーは珍しいのではないかと思います。僕がせどりでこなす作業は仕入れのみです。
面倒な納品作業は代行を使って自動化しています。旅先で商品をちょちょっと仕入れて代行に丸投げすれば、勝手に商品が売れて収益が上がっていきます。
そんなこんなで今現在に至る訳ですが、これらの長きにわたる労働生活一番の悟りは何かというと、「サラリーマンはとにかくクソ」です。
すぐ隣にはこんなに自由な生活が開かれているのに、なんでみんなその道を選択しないんだろうと本当に疑問に思います。
今となってはこんな余裕を吐くことも出来ますが、ビジネスがうまくいかなかった時を思い出すと、同じような人の気持ちが痛いほどよくわかります。
なので、そんな方を少しでもサポート出来るようにこのサイトを作りました。
長文をここまで読んで下さり本当にありがとうございました。
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